---子供の頃から、歌って、踊って。---

私が音楽的な出会いをしたのは、3歳のときに母親が私をお嬢さんにしようと思って、日本舞踊を習わせたのがきっかけ。たまたま幼稚園児も通えるところが近くにあって、習わせたんだけど、結構私自身もそれが好きで。とっても楽しくて、踊ることが大好きでね。で、そのまま、日本舞踊ってのもなんだから、ってことになり、4歳か5歳くらいのときに、バレエに転向して、とにかく踊りが好きだった。
あとは昔から歌うことも好きで。歌好きっていう意味では、母から教えてもらったエピソードがあってね。まだ小学校入る前くらいに、寝言である歌を1番2番フルコーラスで歌ってた、って...。母は私が起きてるもんだと思っていたらしいんだけど、よくみたら寝てたんだって。そのくらい、歌も踊りも好きだったんだね。

中学に入る頃は、変わらず踊ることが大好きだったから、宝塚に入ることも考えたんだけど、やはりまだ親元を離れるのも厳しくて、地元の中学校に入学。当時流行ってて、兄もやっていたバレーボールをするためにバレー部に入部して、ばりばり体育会の生活を送ってました。毎日毎日練習で、かなりハードな生活。お休みなのは正月3日くらいのもの。ここで結局音楽とは一旦離れてしまったんけど、いま思えば、元々アレルギー体質だった私も、これをきっかけに体力をつけられたんだなぁ、と...。そう思ったりします。いまの自分にとって必要な過程だったんだなぁ、って。

音楽に返り咲くのは、高校に入ってからなんだけど。元々中学くらいから、モノマネが好きでね(笑)。人に喜んでもらえるとすごい嬉しくって、何度もやったり、いろんなのをやってみたり。それで、高校3年生のときに、バンドをやっていた友達からボーカルに誘われたの。文化祭で初めて、ロック兼ソウルのバンドで、ドナサマーとかカルメンマキの曲を歌ったのが、歌い手としてステージに立った最初でした。とても気持ちよかった。もちろん、その頃は歌手になるなんて思ってもみなかったんだけど。でも、そのステージをみた仲のいい友達の一人が予言をしてくれてね。「将来絶対にステージで歌を歌う人になるよ」って。いま考えるとビックリしちゃうんだけど...。


---イーストウェストが生んだ2つのきっかけ---

大学に入学してからは、本当に沢山のバンドに参加した。当時ヤマハのイーストウェストってアマチュアの登竜門の大会があって、そこのジュニアで優勝した「EXPRESS」には最初にやってたバンドのブラスの子たちがいたこともあって見にいってたんだけど、準優勝したバンド「寿限無」にゲンタや大儀見がいたりした。で、シニアの部門で優勝した「爆風銃(バップガン)」っていう爆風スランプの前進のバンドがすごくよくって、その後もライブをよくみにいっててね。FUNKをやってたんだけど、私、ファンキーなのがとても好きだったから、何度も見に行ってファンキー末吉くんとかとも話すようになって。歌をやってる話なんかもしたら、たまたま末吉くんが「米軍キャンプにドラム叩きにいくから、見にこないー?」なんて誘ってくれて。とにかく興味津々でふたつ返事でOKして。その頃の私は、Stevie Wonderが神様、みたく思ってたくらいな頃だったから、とにかくキャンプの様子はみたくてみたくて。で、見に行ってみたら、アメリカ人がいっぱいで、なんだかとってもカッコいい。何度か見に行ってるうちに、たまたまある日、リハーサルでチャカ・カーンの曲をやってて、知ってる曲だから聴きながら歌ってたら、黒人の太ったおじさんに「なんだ、お前、歌えるのか。じゃぁコーラスやれよ。」と言われてしまって。「えぇ!いいの、私で?嬉しい!」って感じで、結局そのバンドで初めてお金もらってライブに出るようになったの。ディスコみたいなところを沢山回って歌ったりしてね。

コーラスでそうやってセミプロみたいな仕事は始めたんだけど、でも「やっぱり自分のバンドやりたいなー」とは思うようになって。そうこうしてたら「寿限無」のメンバーだったゲンタと大儀見とあと松尾くんっていうギタリストとかが、「EARTH WIND & FIREみたいな曲をやるバンドをやりたくて、ボーカルを探してる」ってハナシがあり、そのハナシがまわってきて。その頃ゲンタは私に声をかけるの怖かったなんて言ってたけど(笑)。結局そのバンドをやることになった。私が20歳、ゲンタや大儀見が18歳くらいの頃のこと。

ヤマハで初めてのリハをしたそのバンド「ATOM」は、なかなかいい感じで、ライブハウスに出るようにもなってね。このバンドがデラルスの前身のバンド。いろんな曲をやったけど、サルサもやってたんだよね。Tito Puenteの"PARA LOS RUMBEROS"とかやってた記憶がある。大儀見が好きだったのね、サルサが。で、皆、全然知らないんだけど、サルサ。大儀見ともう一人パーカッションの子が先にはまってて、で、当時ドラムだったゲンタも好きだったし、何だか聴かされて、無理矢理やらされて(笑)。でも私はソウルが好きだったから、まさか後生サルサをやるとは思ってなかったんだよね、その頃は。
このバンドではデビューしようと思ってて、かなりやる気で「俺たちメジャーになるんだ」って10数人の大所帯メンバーだったんだけど、相当意気込んでて、デモテープ作ったりもした。FUNKありROCKあり、たまにSALSAあり、みたいな感じで、カバー曲もオリジナル曲もやって。だけどバンドのメンバー間がうまくいかなくなったりして、メンバーチェンジもしたりして...。そんな中、みんなの中でぐんぐんサルサの波がきていて、デルソルを見に行ったりしはじめてたのね。その頃はデルソルが、ただただ好きでね。まさか後に自分が参加することになるなんて思っていなかったんだけど...。


---デラルス誕生から、ニューヨークへ行くまでの日々---

ATOMは20歳から4年間くらいやったんだけど、結局解散することになって、どうしようかなぁ、なんてときに「じゃぁ、若いサルサバンドないから、自分たちのサルサバンドやってみよう」なんて話になった。それがデラルス。最初のリハでは1曲すら通しでできなかったし、最初のサンビスタのライブでは福ちゃんも話してたとおり、6人しか呼べなかったけど。

デラルスと並行して、先に大儀見がデルソルに入ったのね。それでその頃のデルソルはタイロン橋本さんがボーカルをやっていたんだけど、じき、辞めることになって。で、橋本さんに「次のボーカリスト、あなたねー。僕やめるからー。」なんて言われてしまい。で、まぁ、いい経験になるなぁ、と思ったので、憧れてたデルソルにも入って。デラルスと両方やりはじめたんだよね。あと、CHICA BOOMっていう、女の子だけのサルサバンドも森村あずさと始めて。公園に集まって叩くところから始めたバンドなんだけど(笑)。ちなみにこのバンドでは私はボンゴをやってた。あとコーラスと。当時メンバーはまだみんな20代だったから、かわいい女の子たちのサルサバンド、って感じだったのよ。

その後87年にデラルスのデモテープを持って、パナマ、プエルトリコ、ニューヨークに行った。話がちょっと前後するけれど、私、20歳のときに観光でニューヨークに行っていて、その時にサルサを知ってたから、今はもうないCORSOっていうサルサクラブでライブを観てしまったのね。オスカル・デ・レオンの。それが結局、サルサにどっぷりはまったきっかけだったんだけど。最初に観たのがオスカルでねー。本当にすごいゴリゴリで。ベース弾いて歌って踊って、めちゃくちゃカッコよくって。目から鱗が落ちる音がしたくらい。踊ってる人たちもみんなリズム感よくってすごいの。これをきっかけにめちゃくちゃサルサにのめりこんでしまった。観たことによってリアリティが出てきてしまったから、その後はどんどん、FANIA ALL STARSとか有名なアーティストのアルバムを聞いたりして。で、その20歳のときのニューヨークの印象がすごくよくて。いまより随分危なかった頃だけど、ファンキーで音楽が生きてるって感じがしてね。「絶対にこの街に帰ってきたい」って思ってた。そのときから毎月お金を1万円ずつ貯め始めて、6年かかって70万ちょっと貯まった87年に、友達のいたパナマ経由で、サルサの本場プエルトリコと、ニューヨークとに行ったのね。ニューヨークではちょっと長くいるつもりだったから、英語学校にいくことにして。70万円使いきるつもりで。

パナマでは友達がたまたま現地のテレビ局とかラジオ局の人を知ってる、って言って、紹介してくれたんで、デラルスのデモテープを持っていったら、「日本人じゃないみたいだ!」って相当ビックリされて、ラジオやらテレビやら色々出演することになった。2週間の滞在の最後には、パナマの「笑っていいとも!」みたいな視聴率90%くらいあるお昼のバラエティ番組にも出たりして、デモテープかけながらリップシンク(口パク)でやってみせたりして。とにかく皆びっくり。「CHINA(中国人)がサルサやってる!」みたいな反応。私が日本人だってのがそもそも分からない状態だし、でも流石にパナマには結構中国人はいるから、アジア人だし、CHINAだー、って言われちゃうのね。
なんにしても、とにかく反応がよくって、私自身びっくりして。「こんなに反応いいんだ!なんてラテンの国って楽しんだろう!」なんて気もよくなってしまい。それで、その後プエルトリコにいって、そこでもラジオに出してもらったりした。
その後、ニューヨークにいって、英語学校にいきながら、ニューススタンドで"LATINA"っていう雑誌を買って、いろいろマネージメント会社とかレコード会社とかにいくつも電話したの。"I AM JAPANESE","I SING SALSA", "PLEASE LISTEN TO MY DEMO TAPE"なぁんて言って。なかなか信じてもらえないながら、何度も何度も説得をして、パナマでの状況とかも説明して、やっと2つ3つアポを取って。たまたま会いにいけたのが、RMMとSoba Managementってところだった。で、RMMはやっぱり名前も売れてるし「ここと契約できたらなぁ」なんてぼんやり思っていたんだけど、主催のラルフ・メルカードにも会えたには会えたけれど「俺忙しいから早くすまして」みたいな態度をされて。テープも聞いてもらえたけど「で?どうしたいの?」って感じで「スポンサー探してこい」なんて言われちゃって。
それでもう一方の方にいったら、RICHIE BONILLAがいて、ちょうどどうやら暇な頃だったらしくてね。その場で聴いてくれたんだけど、聴いてるうちにどんどんどんどん表情が変わっていったの。「日本人じゃない!信じられない!これって本当にキミ??踊れるの?」なんて状態で、実際踊ってみせたりもしたら、すごく感動されてしまい。「バンドも日本人!?」って聞かれたから、写真見せたんだけど、当時、カルロスとか大儀見とか、見た目外国人っぽい人が結構いたんで「ラティーノじゃないか!」なんて言われてしまった(笑)。でも「違う違う、彼らも日本人」って説得して。なかなか信じてもらえなかったんだけどね。
「何をしたいんだ」ってRICHIEに言われたから「サルサの本場、ニューヨークにきてライブをしたい」って自分の夢を話したら、「よしわかった。じゃ、きみたちがバンドでニューヨークにきたら、俺がブッキングしてあげるよ。」と約束をしてくれた。
もちろん、ラテンの口約束だし、そのときはまさか、今も縁がある人(RICHIEは今でもデラルスの海外マネージャー)だなんて、思ってなかったんだけどね。半信半疑ながら日本に帰って、みんなに、パナマやプエルトリコの反応も伝えつつ、「ニューヨークに行ったらライブできるかもしれないから行こうよ!」って話をしたの。ちょうどその頃は、バンドも盛り上がってきていて、ライブのお客さんも徐々に増えてきてはいて。でもこのままやり続けてても、日本ですんなりCD出せるわけじゃないし、とはいえ、何とか自分たちの音楽を広めたい、何か新しいことをしたいってみんなが思っていた。だから、ニューヨークの話にみんなのって来てね。そこからひと月2万円ずつみんな「デラルス貯金」を始めて、一人20万ちょっとを目指して。結局1年で行くつもりが、貯められないメンバーもいて2年かかっちゃったんだけど、当時25歳前後だった私たちは、89年8月にニューヨークへの切符を手にしたのでした。

もちろん、2年の間もね、クロコでの演奏のビデオとかをRICHIEに送ったりして、RICHIEもニューヨークでいろんな人に見せたりしてくれてたんだけど、でも、実はRICHIEは散々周囲に馬鹿にされてたらしいのね。「たしかに演奏はできるけど、こいつら呼んでどうする気?」「お人よしか、お前は?」みたいな反応ばかりだったらしくて(笑)。それでも、そんな逆境の中でも、RICHIEは律儀に約束を守ってくれて、デラルスがニューヨークに無事にいけることにはなったわけだけど。


---ニューヨークで、ボンサイ!ボンサイ!と叫ばれ...---

ニューヨークで最初に演ったのは、クイーンズの場末のクラブ "ABUELO PACANGUERO"。コロンビア人ばっかり来るようなところでね。機材とかもロクになくって、直前に慌てて近所のミュージシャンからキーボードやアンプを借りて、なんとかライブを開始することができた。予定より2時間押しの深夜1時くらいからのライブだったんだけど、お客さんは最初は2-30人だったかな。ま、でもこんなもんか、ってメンバーとも話しつつ、ライブを始めたのね。ところが、全然お客さんが微動だにしなくて。びっくりしてるのか、ぽかーんとしたままでね。それで、こっちとしてはすごく怖くなってしまって。外人さんってとかく黙って凝視してると怖いじゃない?もう、いつブーイングされたり、モノ投げられたりするんだろう、って恐怖だった。3曲終っても誰も微動だにしなくて、誰一人として楽しそうにしてる人がいなくて、もう私たちヤバイだろう、って思ってしまって。ひやひやの中4曲目を始めたら、すっと立ち上がったカップルがいて、踊り始めたのね。で、段々、他のお客さんたちも踊り始めてこっちも嬉しくなってきてね。その後あと2曲くらいやったら、段々盛り上がっていって。2部もあったんだけど、2部の最後なんて、お客さんがステージ前ギリギリまできて、盛り上がりまくり。"DESCARGA"でゲンタがティンバレスソロをバーッとやってるときには、跪いて十字切ってるおじさんまで出てきちゃったくらいで。別の人は「ボンサーイ!ボンサーイ!」とか叫んでて(笑)。それ、バンザイの間違いだろって。

その後、何本かライブをいろんなところでやったんだけど、やっぱり "ABUELO PACANGUERO"と同じ反応で、最初は戸惑いながら、最後にはすごい盛り上がりで、半狂乱状態になっていって。そのウワサはどんどん広まってね。最後には、3-4000人入る "PALLADIUM"っていうディスコが満員状態になった。その"PALLADIUM"でのライブにはラルフ・メルカードもウワサを聞きつけて観にきていてね、終ったあとに会いにきて、「俺のところでレコードを出さないか」って言ってくれた。メンバー一同「RMMでデビューできる!?」ってそれはそれは大興奮状態になって。「契約書を作っていくから」って言われてその日は終ったんだけど。

ニューヨークから帰国する直前に、RMMから契約書ももらって、分厚いし、何書いてあるかチンプンカンプンだったから、日本に帰って連絡するってことにしてひとまず帰国。日本で弁護士さんに訳してもらったら、とんでもない内容で「こりゃダメだ」ってなった。「4年間ただ働き。収入はライブのみ。」みたいな酷い契約だったのね。CDが売れても一銭も入ってこない、みたいな内容で。大体、私たち日本に住んでるわけだから、ライブやらないと収入が入らない、って今となんら変わらないじゃん、ってことになって、これはマズイと。それで、カルロスがBMGのディレクターと知り合いで、状況を話したら上層部とかけあってくれてね。BMG内でも「面白いじゃん、出してみようか」ってことになって、日本で録音をして海外のディストリビューションをRMMにする、っていうことが決まり、丸くおさまって、日本でCDを出し向こうでも発売、っていう運びになったのでした。

契約が決まってね、当然みんな盛り上がって。それまで演ってた、"CALIENTE"とか"CUERO SONO"とか、リハーサルしたりして、曲どうしよう、なんて話もしたりしてた中、翌年90年の3月、レコーディングのためにSERGIO GEORGEがディレクターとしてRMMから日本に送りこまれてきた。彼もまだ売れる前だったから、今では信じられないような破格なギャラで来日したんだけど。
私たちはレコーディングのときに初めてセルジオと会ったんだけど、とにかく彼の影響力はものすごかった。私たちもまだまだ全然ひよっこだったから、当時のデラルスの音をレコーディングクオリティにしたのは彼だったのね。
彼がきて、じゃぁやってみようかってなったら、まず、コンガの音が録れなくって。私たち自身もまだアマチュアに毛が生えたようなもんだったから、ヘタクソだったし、音の鳴らし方もわかってなくって。で、サルサにおけるレコーディング技術も日本では全然なくってね、エンジニアも日本人でサルサ知らないし、マイクの位置から何からダメでね。セルジオ、びっくりしちゃって。で、彼が一からすべて教えてくれて、やっとコンガを録り。で、まぁ、ベースのフレーズもなってない、っていうんで、それもかなり指導が入って。ベースとコンガがちゃんとしてないと、サルサは踊れないから、って言ってね。それで序所に形にしていって、何とか録ったのね。
曲は、セルジオが何曲か持ってきてね。「お前たちのオリジナルは録ってもいいけど、こんなんだけじゃ売れない。いまはサルサ・ロマンティカの時代なんだから。」って言って、"ACABA YA"とか"TU ME LLENAS"とかロマンティコな曲を持ってきてそのレコーディングの場でSERGIOがアレンジをして録音した。でも、実は私たちは曲をレコーディングのときまで知らなくってね。しかも、リズム録りにとにかく時間がかかったもんだから、最後にやる歌入れなんて本当に時間がなくて、遂には1日5曲録らされる羽目になってしまって
実際、歌の録りになって、最初に"CALIENTE"をやったんだけど、まずいきなり「発音が違う」って。LとRとか、UとOとか、日本人にとっては本当に難解な発音があって悩まされた。私にとっては、本格的なスタジオで、プロとして、製品化されるCDを録ったのは、初めてのことだったんだけど、この初めてのレコーディング、「曲がわからない」「時間がない」「発音ができない」ってもう三重苦状態だったね。逆境の中で、カルロスや大儀見には「発音が違うよー」とか言われて、何度も泣きたくなったし...。

いろいろな厳しい状況を経て、やっと録り終えたファーストアルバムなわけだけど、とにかく音もリズムも演奏もまずいんで、SERGIOも何とかしなくっちゃっていうんで、普段はプロデュースしかしない彼が寝ないでエンジニアの代わりまで務めて、帰る日まで音作りをしてくれた。とにかくみんなの演奏が下手だったから、それをごまかすためにシャキシャキの音にしたのね。高音と低音を強調して。そうでないと、一音一音がちゃんと出てこないもんだから。そうしたらね、そのサウンドが後に「新しい!」ってことになって、みんなそのサウンドを真似たりしてねー。まぁ、なんて、「災い転じて福となる」んだろうって...(笑)。デラルスはこういう「災い転じて...」みたいなことが幾つも重なって成功していったのね。


---デビューからのクレイジーな日々---

海外に初めてツアーに行ったのは、デビューアルバムリリース直後の90年秋。ニュージャージーにあるメドーランズアリーナでのサルサフェスティバルが皮切りだったんだけど、その頃から何だかすごいことになっていった。サルサフェスティバルには2-30000人のラティーノが来てたんだけど、ものすごい熱狂状態になってね。"CALIENTE"もものすごくウケたし、大儀見が"ENERGIA"をうたうと、歌詞ひとつひとつで「わぁーっ!」っとウケるのね。あの曲はやっぱり歌詞がプエルトリカン向けというか「カリブの真珠のように美しいリズムを僕らはやってるんだ」みたいな内容だから、妙に有難がられてね。ニューヨークでツアーしてれば、一日何十回もラジオで"CALIENTE"がかかってね。毎日毎日取材だ、テレビだ、って本当にあっという間に大忙しになってしまった。
夜中にライブが終って、ホテル帰って寝るのがもう明け方に近いんだけど、翌朝は8時からラジオ。そして、テレビやら雑誌やらの取材があったりして、その後、リハしてまたライブ。誰もろくにスケジュールコントロールができない状態で、なんだかとんでもない生活を送らざるをえなくって。

そのときのツアーは、ニューヨーク以外も何箇所かあって、途中確かプエルトリコにいたときに「ビルボードで1位になったよ」とスタッフから言われて...。メンバー一同、ポカンとしてしまった。「ビルボードって、え?」って感じで、みんなよくわかってないから「それってすごいの?」「日本のチャート1位と同じくらいだよね」みたいな受け止め方だったのだけど。そんなに実感もなくて。「またすぐ下がるよねー」なんて思っていたのに、なかなか下がらず、周りのスタッフは大喜びしてるんだけど、私達は「はぁ?」みたいな感じで、それどころじゃなく、寝たいんだけど、って気持ちだったのね。

2度目のツアーはカリブツアーで中南米諸国を周ったのだけど、ベネズエラにも行って。そのときの話は福ちゃんもしてたとおりだけど、いきなり記者会見で、ミスユニバースみたいなキャンギャルたちもずらっといてね。メンバー一同疲れ果てて眠かったのに、一気に目が覚める、みたいな。キスまでされちゃって(笑)。記者会見の場には、オスカル・デ・レオンがいて、私は20歳のときに、オスカルのライブをみて、サルサにはまった人だし、とにかく尊敬してるし、彼こそサルサをやるために生まれてきた、って思ってるから、びっくりしちゃってね。感激した。でも、記者会見はみんな普段着だし、私なんて当然ノーメイクで。なのに翌日新聞一面に載っちゃって(苦笑)。恥ずかしいやらなにやらだよね。この頃はどこの国にいっても、新聞の一面に載ってたのね。やっぱりカリブ諸国は芸能が盛んだからね。笑ったのは、どこの国だったかちょっと覚えてないんだけど、新聞一面に「オルケスタ・デ・ラ・ルス来日!」って、飛行機のタラップから降りてくる写真が載ってたんだけど、私じゃなかったの。当時のマネージャーの女の子で。髪が長くてさ。「間違えるか、普通!」ってメンバー一同大笑い。

ライブの内容は福ちゃんもちょっと話してたけど、いくつものステージを憧れのオスカルとやらせてもらってね。私たちの演奏に"DESCARGA"で彼がゲストで出てくれたりしたんだけど、とにかくオスカルが歌いだす瞬間に全てが「彼」になってしまうの。全部全部アドリブですべて粋なことを、どんどんどんどん歌っていくのね。私たちがどんなに演奏しても「どわぁー!」とはならないのに、オスカルが1フレーズ歌っただけでなるわけよ。もう本当に参りました、って感じで...。これはもうなんとかしないと、と。さすがに彼のようにはなれないけれど、うちらも「うわーっ」と言わせる何かを作らないといけないね、と思うようになったよね。彼があそこまで一流じゃなかったら、私たちもそんなこと思わずに、のんびりしてたかもしれない。彼のおかげだよねー。天狗になっちゃうところだったデラルスを助けてくれた。


---日本での飛躍、そして過度のストレス---

でもいざ日本に帰国してみると、ベネズエラではあんだけ空港に出待ちがいたり、盛り上がりもすごかったのに、成田に帰ってきても誰もいないのね(笑)。ライブやっても200人くらいの集客だし、CDも数千枚どまりだったし。海外では最終的にはプラチナディスクまでもらったくらい売れまくっていた状態なのに。
でも、91年にマジソンスクエアガーデンでのサルサフェスティバルに出るときになって、TBSの取材が来たのね。この年の春にレコーディングをしたこともあって、で、海外でものすごい人気ってことも手伝って、日本のテレビ局も重い腰をあげて、当時の「情熱大陸」みたいな番組「新世界紀行」で特集をしてくれた。その番組で、ちゃんとニューヨークのヒスパニックの背景とか、サルサの広がりとかしっかり取材してくれて、それで日本にも知られるようになったんだよね。あのテレビの影響は無茶苦茶強かった。

で、その前、2枚目の"FRONTERA"のレコーディングをする前に、GENTAが自分のバンドとの両立が難しくなったこともあって辞めて、他にもブラスのメンバーなんかが辞めていって新しいメンバーに変わったりしたんだけど、一番大きく影響があったのは、やっぱりリーダーだった大儀見の脱退。大儀見は、2枚目のレコーディングを済ませてすぐ辞めたんだけど、やっぱりこれは大きかったよね、グループ内におよぼした影響としては。
大儀見が抜けた後は、話し合って、最年長だったカルロスがリーダーになった。彼は仕切るのも好きだし、取材も、話し合いも、プロデュースも好きだったから、世界中からいろんなオファーをもらってるのを、コントロールするのも率先してやってくれたしね。92年にはテレビとかの影響もあって、日本でもチケットがソールドアウトするようになって。ヨーロッパにもツアーに出るようになって、カリブだけじゃなくていろんな国にいくようになった頃。

日本でデラルスが一番忙しくなったのは93年。"SOMOS DIFERENTES"が出て、タイアップがすごく決まって、あの頃がピークだった。でも私たちはその頃「自分たちはミュージシャンだぞ」って気持ちが強くて...。売れる、というか...メジャー方向にいこうと思えば、いくらでもいける状況はあったんだけど、そこまでやっぱりメンバーにはメジャー志向がなくてね。SALTなんかをはじめ、ジャズが好きなメンバーも多いし、サルサばっかりストレートにやってるのもイヤだし、だからいろんなことを模索していて。TBSで番組のタイアップ決まっていて「デラルスさんらしい曲お願いします」ってすごい優しいオファーをくれてるのに、"MOVE IT!"みたいな全然違う曲を書いてみたりね。自分たちの中でやっぱり飽きがきててね。「サルササルサはもうやめようよ」みたいな雰囲気があって。史郎くんも「サルサって曲のタイトルにつけるのやめない?」って言ったりして。93年あたりはライブの本数が200本とかの状態でね。本当にクレイジーな状態が続いたんだよね。90年から95年まで5年間ノンストップ状態だった。続けようと思えば、その先もまだその状態は続けられたんだろうけど、自分たちから、限界がきて、果てて、それを辞めた、ってのが実際のところ。日本だけでメジャーになったのであれば、日本中を廻るだけで済むかもしれないけど、デラルスの場合は、やっぱり海外に行かないといけない状況があったから。移動だけでもぐったりしちゃう上に、やっぱり海外では細かいトラブルが色々あったし。

積み重なっていく疲労や、無茶なスケジュールにメンバーは段々限界状態になっていってて。私もすごいストレスあったし、みんなもストレスがあったし。メンバーの中には海外ツアーがつらくなって「成田まであと千何百何十何秒」ってカウントしてるメンバーすらいて。確実にゆっくり食べれて寝れるのが飛行機の中だけだったから、食べなきゃいいのに、移動のたびに食べてて。いつ食べられないかわからない、いつ寝られないかわからない、っていう飢餓感がいつもいつもあって。それで、すごい食べちゃってたから、あの頃の私は太ってたんだよね。しかもその時分が一番テレビに出てた頃だし。だから最近よく「NORAさん、やせましたね」って言われちゃうのね(笑)。あの頃の印象が強いんだろうなぁ。
でもそんな中でも楽しかったのは、いっぱい色んなミュージシャンと出会うことができて共演することができたこと。サンタナと演ったりね。あとはグラミー賞にノミネートされたから、授賞式にうちの母を連れていくことができてね。それは親孝行できたんじゃないかな、って思ってる。


---勇気をもって解散を決定---

93年末に4枚目"LA AVENTURA"をリリースした後、94年くらいには、もうやりたいことをやり尽くした感がバンドの中に出てきちゃったのね。"LA AVENTURA"では実際、"MOVE IT!"みたいな曲を作ってみたり、"TIME AFTER TIME"をカバーしてみたり。それまでのデラルスとは違ったアプローチもしていて、ちょっと出し尽くした感があって。
それでその頃、SALTがソロアルバムを出したり、福ちゃんがラテン野郎を始めたり、副産物が沢山出てきて、皆、そっちの活動も忙しくなってきたのね。段々みんなのデラルスに対する集中力がなくなってきていた。この頃、伊達弦と、おさわ(澤田浩史)も辞めて、新しいメンバーを迎えて。5枚目、原点に戻ろうってことで、サルサ色の強い"SABOR"を作ってみたんだけど、でも、やっぱり売れる前の熱いデラルススピリットを持ったメンバーが減ってしまって、難しくなってしまってたのね。
解散するまでに1年ちょっと休憩してたんだけど、私は、自分が作ったバンドだし、解散する気は元々全然なかった。デビューしたときに、2-30年はやろう、って思ってたしステージでも言ってたくらいだから。だけど、とうとう解散せざるをえない状況になっちゃった。まずSALTが続かなくなっちゃってね。ソロが忙しくなってしまって。で、代わりいないじゃん、ってことになり、カルロスも自分のやりたいことが確立されてきてしまってたし。このままいい加減に続けるよりは、一度解散コンサートをして、区切りをつけたほうがいいんじゃないかって。こだわってちゃダメだな、と、あるとき思えて、かなり勇気のいることだったんだけど、解散を決定したんだよね。

でも国連平和賞をもらったのは本当に嬉しかった。あれも本当に意外なできごとで「なにそれ?」って感じだったんけど、調べれば調べるほどすごい賞で、逆にこれはもらったからには活かさないといけないよな、と、いまでもずっと思っている。


---テロがきっかけとなった再結成---

その後ソロで、4年間続けてたんだけど、2001年9月11日にテロがあったじゃない?それはそれはとてもショックな出来事で。ニューヨークにはやっぱり毎年行っていて思い入れもあるし、第2の自分の街、みたいに思っていたし、倒壊したワールドトレードセンターの上層階には、サルサクラブがあって、そこでライブをやったこともあったらとても辛くて。あの頃、色んなミュージシャンが様々なイベントをしたりして、私も何かできないかなぁ、って、ずっと考えてた。どうせなら国連平和賞もらったデラルスで何かできないかな、って思って、スタッフや一部メンバーにも話していったら、やっぱり「デラルスで出来たらいいよね」みたいな話になって。「一回限りだったらいいんじゃないかな」ってことになり、メンバーに声をかけていったのね。カルロスに声かけて、SALTにも声かけてOKもらって。で、ティンバレス誰に...って話になったとき、ゲンタに声かけてみよっか、ってことになって話したら「デラルス?やるやる!」なぁんて感じで決まって。それで2002年に一夜限りの再結成チャリティコンサートがSHIBUYA-AXで実現できた。これはえらく盛り上がってね。じゃぁ、来年もやりたいね、ってことになって、翌年、新宿の厚生年金会館で、BOOMの宮沢くんにもゲストにきてもらって。この2回目のリハをしている段階で、折角だったらちゃんとアルバム作りたいよね、なぁんて話が持ち上がって、そこで実質、正式な再結成、ということになったのでした。

再結成から、JINちゃんとかアイピも入ったし、2回目のチャリティライブからはケントも入ってきて。それでまぁ、また今、さらに新しいデラルスに生まれ変わろうとしている段階なんだけどね。
ケント、ミゲールが入ってきたのは、やっぱり、すごく新しいデラルスって感じだった。若い2人の存在が新しさを出したし、それがやっぱり"!BANZAAAY!"と"ARCO IRIS"によく出てると思う。雰囲気もそうだし、実際サウンド的にもね。"ARCO IRIS"が出来たのは本当にケントの力が大きいよね。彼無しにはやっぱりあぁいう曲は出来なかったと思う。

再結成からここまで、デラルスの新しい挑戦 "NUEVA AVENTURA"をしてきたんだけど、今は逆にケントとミゲールが辞めてしまったことで、今後長くずっとサルサを続けられるメンバーとやっていけたら、と思っているところ。2人はそれぞれ自分の音楽というのを別に持っていて、ジャンルも異なっていて、それがサルサの様式美と違うところがあり、融合がとてもとても面白かったんだけど、ある程度やってみて、また新しい段階にきたのかな、と思ってる。
最近はライフワークとしてサルサをやれる人を入れたいね、という話になっていて。今回入ってもらった崇也は、そういった方向性にあっているメンバー、と思っているんだよね。


---そしてまた、"NUEVA AVENTURA"(新たなる挑戦)---

これからのデラルスはもちろん新しい色もあるんだけど、再度サルサに真っ向から向き合うことを考えている。海外に行ってとくに感じるんだけど、サルサはサルサじゃないといけない。モントゥーノはモントゥーノで様式美が必要だし、パーカッションもサルサの型がしっかりある。ライフワークとしてデラルスをやっていることがすごく大事な一部になってくれるメンバーを揃えていきたいな、と思っているのね。トロンボーンの大ちゃんなんかもそういうタイプのメンバー。いまのデラルスのブラスセクションに合ってると思うし。各メンバー、また新しくバランスがとれてきた感じがするよね。比較的新しいメンバーの五反田くんもすごく楽しそうにやってるし。

デラルスをこれまでやってきて、というより、これまでサルサをやってきた集大成だな、と思っている曲があって、"PARA QUE GOCEN RUMBEROS"。これは海外でも早くリリースしたいな、と思ってる。絶対にすごくウケると思ってるし。歌詞にこめた思い入れがとても強いので。あと「真夏に咲いた花」はね、あんなにサルサなメロディを日本語にしたのはスゴイな、と思っていて。そもそもあの曲、作った当初は完全にスペイン語だったんだもの。福岡のラティーノ数人に「マナツ、アノ曲、ダイスキネ」って言われたし、ヨーロッパツアーのときも、「真夏とARCO IRISは意味がわからなくても楽しめる」って随分言われた。
それと余談だけど、"MAKE THE WORLD STAND STILL","I CAN ONLY BE ME"とか"SAVING ALL MY LOVE FOR YOU"とか、R&Bのテイストがある曲は実はすごく好きなんだよね。もともとR&Bが好きなこともあって、ついついR&B曲のカバーは1曲入れたくなっちゃう。そこに実は私らしさがあるかもしれない。

これからの私の夢は、世界中でのヒット、1曲を生みたいな、と思ってる。これからの20年、私が65歳、70歳になるまで、世界中をその曲で廻れちゃうような曲。30からの15年"CALIENTE"で廻ってきたけれど、その次となるような曲を作れたらなぁ。それこそアジアとか他の国まで、今までいったことのないような国にもいけちゃうくらいのものができたらな、って思ってます。その曲で、私たちはサルサバンドだけど、「サルサ」って枠をとっぱらうことができたら、ステキだなと思って。一瞬のヒットで終らない、世界中が「あ、この曲知ってる」って思えるようなものをね。
なぜそういうことをしたいかというと、私たちは日本人で、日本ってやっぱり平和な国だから、日本人だからこそできることってある、と私は思うのね。平和な日本に生まれた私たちが音楽を通じて、もっともっと国境を越えて、訴えていけることがあるんじゃないかと思って...。

そして、振り返ってみたら80くらいになったとき、「色々あって大変だったけど、これをしたから世界に音楽を通じて、平和の大切さとか自由の大切さとか伝えていけたな。」「ちょっとは世の中に貢献できたな。」と、思えるようになるのが私の目標。
80歳くらいまではバリバリステージでやっていきたい、って思っているから、「あのおばあちゃん、ファンキーだよね」「腰ひとつ曲がってなくてバリバリ踊るし、声も出てるし」って言われるようになるため、健康に気をつけて(健康オタクになって)、1日8時間寝るようにしてます。20年30年、また一つの山を越えられるように、振り返ったときに「人の役に立てたかな」と思えて「有難い人生でした」と思って死ねるように生きることが目標なんです。

(2007年に実施したインタビュー。なお、写真はその頃のものではありません。)