Yoshiro's Long Interview

---最初に触れた音楽は、日本のルンバだった---

俺自身がデラルスの中で一番田舎出身かもしれない。一番音楽に無縁なところの出身。浜松に近かったから楽器とかの製造面では活発なところで、親戚もヤマハにいたりしてトランペット作っていたりするけど、ソフト面ではまったく無縁に近かった。

そんな中で「遠州大念仏」っていうのが身近にあったのね。お盆の時期、近隣の初盆の家を20人くらいの編成で、唄、締め太鼓(和太鼓の一種)、鐘、横笛などを演奏し踊りながら行う行事なんだけど。小さい頃の音楽といえばそれだったな。親父がそれをやっていて、毎年見に行っててね。それが俺の太鼓と踊りの出会いだったのかも。太鼓を叩く人間だけで7,8人いて、歌う人が4,5人いるんだけど、ある意味日本のルンバだよね。勿論向こうのルンバみたいに毎日はやらないよ。年に1回だけなんだけど...。

それ以降、音楽っていうのはむしろ苦手だった。オルガン教室とかに興味をちょっと持ったりはしたんだけど、男がやるもんじゃない、って雰囲気もあってさ。小学校5年生くらいの運動会のときに演奏しながら行進する機会があって、小太鼓やってみたいなぁ、と思ったんだけど選抜で負けちゃって(しかも1/2の確立で)、その他大勢のメロディオンになったのは、いまだにショックだったり(笑)。

中学に行ってからが音楽に目覚め出した時期かな。ニューミュージックブームがあって、いよいよギターをやってみたくなった。お年玉とかお小遣いをためてやっとギターを買ったのが中学2年のとき。最初に買った楽器はそのフォークギターで、実はまだ持ってたりするんだけど。
とはいっても全然本格的にやってたわけじゃなくって、家で「ジャーン・ジャーン」って弾く程度。部活とかでやってたんでもなかったし...。当時俺、剣道部だったから(笑)。思いっきり運動部で厳しい練習とかに耐えてたんだよ(笑)。そのおかげなのかなんなのか一応有段者にはなったけどね。


---おたまじゃくしへのアレルギー反応が、パーカッションを選んだ理由!?---

高校は男女共学なのにクラスに女子が2〜3人しかいない、ほぼ男子校みたいな学校だった。自転車で1時間ちょっとかかる(電車だと1時間半くらいかかる)ところで、割と新しい学校だったらからえらく厳しい学校でねぇ。そんなところで、また「運動系の部活に入るのは、絶対にイヤだ!」と思って。ギターやってたから、クラシックギター部を見にいってはみたものの、当時俺はエレキギターの方に興味がいき始めてたんだよね。でもエレキギターなんて邪道だからダメだって言われちゃってさ。ナイロン弦でどっぷりクラシック、な感じなわけ。「こりゃ合わない」と。他に色々部活をみて回って、流れ流れて辿り着いたのがブラスバンド。ブラスバンドは演奏会とかコンクールとか、クラシック部門とポピュラー部門とあるんだよね。そのポピュラー部門になると、エレキギターにも活躍の場がある。当時うまい先輩もいたし、「ここならエレキギターが弾けるんだ!」ってなって、話を聞いたら、確かに弾ける、と。でも曲によってギターがないものもあるから、別に1パートを掛け持つ必要があるって言われてね。色んなパートを見て、いろいろ勧められたりもしたんだけど、みんなさ、ほら、おたまじゃくし(音符)があるじゃない?それには苦手意識があってさ。で、上がったり下がったりするよりは、横一列の方がいいなぁ、と。そこで選んだのがパーカッション。しかも行ってみたら、すごいドラムの上手い先輩がいてね。「ドラムかっこいいな!」と思っちゃって。そこで、パーカッションを選んだのが、今へ繋がったんだね。

で、部の同学年の中にフュージョン好きな奴がいて、そいつはすごいカシオペアや高中正義が好きで、そいつに勧められて、その系統の音楽を聴くようになったんだけど。聴いたら何やってるか解らなくて(苦笑)...すごい複雑でさ。でも聴くごとに面白くなってきて、好きになって、ジャズフュージョンを沢山聴いてたなー。渡辺貞夫とかタイガー大越とか。スパイロ・ジャイラなんてのも聴いてた。その他にも沢山聴いたけど、この頃に、なんとなく日本人と外国人の出す音の違いに気づき始めて、外国人が演奏しているのを聴くと、妙に躍動感のあるリズムが印象に残ってね、その頃からグルーブって意識が芽生え始めたね。

普通、パーカッションに入るとシロフォンとかグロッケンとかもやらなきゃいけないんだけど、音符が上下するのが苦手だったからさ(笑)。1年のときは先輩にそういうのはお願いして、上の学年になったら後輩にやらせて、自分はひたすらドラムを練習してたんだ。昼休みも食べ終わったらすぐ音楽室。ブラバンの練習後もバカスカ叩いてて。うるさかっただろうなぁ...迷惑だよね、いま思えば。

とにかくドラムに打ち込みまくって、高校3年になって気がついてみたら、周りは受験に向かって戦闘態勢に入ってた。進学校だったから当然なんだけど。でも自分のあたまの中はとにかく音楽しか流れてない。寝ても覚めても音楽のことばっかり考えててね。先生に進路を聞かれても「プロになりたい」としかいえない。だって他のことを考えられないわけだし。それを言ったとき、担任がものスゴい剣幕で怒鳴ってね、今でも鮮明に覚えてる。「プロなんかになれるもんかぁ〜〜!」ってね。最終的には、大学受験ってものにトライしたんだけど、結果としてはそれまでの人生で一番の挫折を味わいながら、専門学校に行くことになった。


---ハンティング帽にくわえタバコの奴との出会いが、ラテンへと導いてくれた---

専門学校は蒲田にある学校だったんだけど、結構大きな学校だったから、音楽サークルみたいなものもあってね。行ってみたら、そこにハンティングをかぶって、くわえタバコで得意気にコンガ叩いてる新入生がいてね、それまで本物のコンガなんか見た事無かったもんだから、コンガを見るのも叩いてるのも初めて間近で見て「コンガ叩く奴なんているんだ!」みたいな新鮮な驚きがあって。横目でみつつ、自分はドラムのところにいって叩いていたら、そいつがこっちを見てさ。「お、できるね!」って。コンガを叩きながら「美座です、よろしく」って。それが美座良彦(オルケスタ・デルソル、グルーポ・チェベレのティンバレス担当)との出会いだった。

すぐにあいつとは仲良くなって。入学してすぐの4月のうちにあいつの家に泊りがけで遊びにいくようになったりして、そんな中「俺がやってるバンドのドラムが浪人しちゃって、ドラムが空いちゃったんだけど、やらない?」なんて渡りに船な話がきて「いいねぇ」って。上京して半月も経たないうちにバンドのメンバーに会うことになった。そこで出てきたのが、佐藤英樹(オルケスタ・デル・ソルのボンゴ担当)と伊藤ブー(伊藤寛康。元デラルスのベーシストで、チェベレのリーダー)、あと大堰邦郎(チェベレのサックス奏者)。渋谷のヤマハで会ったんだけど、盛り上がってバンドの名前まで決めてね。「マンハッタンクラブ」っていう。今思えば笑える名前なんだけど。

早速リハとかもやるようになったんだけど、当時、俺が住んでたのは学校の寮で、なんと横浜だった。で、蒲田まで通うのはまだいいものの、バンドの練習は三鷹なわけ。みんな三鷹あたりに住んでたから。片道90分かかるし、通うお金もえらくかかって。練習して疲れてるのに、また遠い距離を帰らなきゃいけない。そんなこんなで、結局伊藤ブーの家に泊めてもらうことが多くなった。そうすると、みんなで食事したり、銭湯いったりしてコミュニケーションできる機会もできたしね。

東京に出て来て最初のゴールデンウィークに代々木でサルサフェスティバルがあって、皆で見に行こうってことになって。80年代半ばだったんだけど、日本にあるサルサとかラテンのバンドはみんな出てて、デラルスや、オルケスタ246(CHICA BOOMの森村あずささん在籍)なんかも出て、トリがデルソルだった。みんな白いスーツに赤いネクタイをして、「この人たちヤ○ザか!?」と思うようないでたちだったんだけど、それが最初のサルサとの出会い。「マンハッタンクラブ」はラテンフュージョンバンドだったんだけど、英樹がラテンのアーティストとかをよく知っててね。サルサフェスに行こうって言い出したのも英樹だった。行って一番最前列で皆並んで被りつきで見てて。初めて観たサルサは、聴いたことなかったこともあって、何だかわけがわからなかった。ドラムも無いし、カッコいいー!って感じではなかったんだよね(笑)。
だけど印象に残ってたのは、ゲンタ(髪型と動きが印象的)と大儀見元氏(この人はラテンの人?って感じで...)。NORAも変わった人だなぁ、と思った記憶がある。あとオルケスタ246のノリコさん(DIVA NORIKO)の迫力にも驚いた。外国人みたいなマーティン・ウィルエバー氏(デルソルの元ティンバレス奏者)も何だか印象に残った。

けど、まぁ、この段階では別にサルサをやろう、とかいうことにはならずに、ラテンフュージョンをやっていてね。ライブハウスに出たり、近所の大学の学園祭に出たり、イーストウェストにも出てみたけど、三鷹予選は優勝したものの、本選負けしたりしながら。ただ大会とか出てみて思ってたのは、やっぱり当時は歌入りのバンドが多くって。インスト系で、しかもラテンパーカッションが2人もいる、なんて、なかったよね。珍しいバンドではあったと思う。「歌バンなんて軟弱!」とか思ったりしてたし(笑)。

そのうちに、2年くらい経って専門学校を卒業する頃には「やっぱりサルサもやんべぇな」みたいな話になってきて。で、その前にラテンジャズとかは始めていて、そのときにルーチョ(サルサ好きなペルー人。当時、身の回りでスペイン語を話せるのは彼くらいだけだった)とかも入って歌ものもやったりしてライブもしたりしてたんだよね。
卒業して就職するでもなく、伊藤ブーのアパートに転がり込んでトラックのバイトしながら、サルサバンドを始めてた。それがGRUPO CHEVEREの前進のバンドだったんだけど。岩村(岩村健二郎。GRUPO CHEVEREのボーカリスト)も入ってね。あいつは元々俺らがバンドやってたときに、ビデオ撮影とかしてくれてたんだけど、気づいた頃には俺らの誰よりもラテンに詳しいラテン博士みたいになっていて。スペイン語も出来るようになってたんで、歌を担当することになったんだよね。


---一度音楽をやめて公務員になってはみたものの...---

でも、そのバンドもプロになるでもなく、半年くらいでずっと居候してるのもなんだから、って、一旦実家に帰った。で、理由はもう忘れたんだけど、何故か地元の青年団に入ったりしててね。多分暇つぶしくらいの理由だったと思うんだけど、この青年団に入っていたことが、このあとの俺の人生をちょっと変える結果になった。というのも、「これからどうしようかなぁ?」みたいな話をそこでしてたら「役場で人を募集してるよ」なんて話が入ってきてさ。青年団にいた小学校の同級生の女の子が教えてくれたんだけど。「ヨシローくん受けてみたら?」って言うんだよね。そんなの勉強も全然してないし受かるわけない、と思ってたんだけど、何だか受ける流れになって。何の準備もせず、前の夜も地元で先輩たちと飲んだりしてて、酷いもんだったんだけど、行ってみたら、どういうわけか受かっちゃって公務員になることが決まってしまった。

そんなわけで、とりあえずバンドもやめて、完全に地元に戻ることになったんだけど、そのとき伊藤ブーは「ヨシローは必ず帰ってくる」って予言をしたんだよね。でも俺は就職しちゃったらもうこのまま田舎暮らしになるんだろうなぁ、って思っていた。21歳の頃のことだけど。

就職して当初、たまには東京行ったりもしてたんだけど、ある時浜松に「サルサ」って店があるのを知ってね。行ってみたらコンガが置いてあって、店主のおやじと意気投合して、そのつながりで浜松でもバンドをやることになった。アメリカンポップス中心のバンドにコンガで。何でアメリカンポップスにコンガって話はあるんだけど(笑)。多いときで週に3回くらい営業があったりしてさ。スナックでの演奏とか、結婚式や忘年会の演奏とか、自動車会社の新車発表会で、とか。これはこれで勉強になるな、と思ってやってたんだけど、公務員だからギャラはダメね、なんつってただ働きだったんだけどね。たまに寿司屋でおごってもらったりはしたけど。

で、その頃東京では何が起きてたかっていうと、佐藤英樹がデルソルに入ったっていうわけ。大儀見さんが抜けたデルソルで英樹はボンゴを叩いてたんだけど、そんなときにマーティンさんが抜けるっていうんで「誰か若いいい奴いないー?」って英樹がペッカーさんに聞かれて俺を紹介してくれたのね。「デルソルでティンバレス探してるんだけど、やらない?」って。勤め始めて2年経った頃だね。二つ返事で「やるやる!」って。とはいえ、やるっていっても、すぐに公務員をやめるってことにはつながらなくって、六本木ピットインとクロコダイルを月に1回ずつやるっていうのがその頃のデルソルのサイクルだったから、やれなくもないかな、って思ってね。ところがそれが地獄だった。有休もそう簡単には取れないから、午前中働いて、午後から休みをとって東京まで車で走って。で、ライブやってピットインが終るのが11時半くらい。そのあと楽器片付けて「帰ります!」って言って、車走らせて帰る。家につくのは早朝5時、6時くらいなんだよね。当時8時までには仕事に出てたから寝る暇もないほど大変で、しかも地元の営業バンドもまだやってたし。それに、それまでの営業バンドと違って、デルソルってやっぱりプロの集まりだから緊張感が全然違う。デルソルで5分やるのと他で5分やるのとじゃ大違いで。デルソルで1晩ライブやると、どっと疲れたりしててね...。

そんなこんなで何とか続けてはいたんだけど、やっぱり途中で「ぼちぼち転換期かな」と感じた。石の上にも3年って言うし、3年務めたからもういいかな、と思って、公務員辞めよう、と思って。所属してた課の係長、課長と話をして。でも、正直、どうやって辞めたのか、あんまり覚えてないんだよ。もう「辞める」方向に向いてたとしか思えないよね。見えない力が働いていた!?って思うくらい。気づいたら、すぱっと辞められて、また東京に舞い戻ってた。伊藤ブーが「やっぱり。ヨシローは戻って来るって俺は言ってたんだ。」って得意気に言ってたけど。


---デラルスへの参加。そしてとんでもない日々。---

上京して、正直決まってたのはデルソルでの活動だけだったんだけど、先輩が優しくってね。ペッカーさん(オルケスタデルソルのリーダー/ボーカリスト)が4月から始まるニュース番組の箱バンを紹介してくれたりして。それで生計を立てられるくらいになって、ホッとしたね...。

そうこうしてるうちに、5月になって、ある日留守電が入ってて。NORAから「ちょっと話がしたいんだけど。」って。でも当時、実は俺は伊藤ブーと一緒にアパート借りていて、電話は1つしかなかったんだけど、その電話には「誰宛」っていうのがなかった。でも元々その電話は伊藤ブーの電話だったから、彼宛だろう、ってことになって彼がかけたら、「ヨシローと話したいって言ってる」っていうわけ。それで話を聞いてみたら「今デラルスでティンバレスの大儀見がやめちゃうんで、ティンバレスを探してるんだけど、やってくれない?」って言われてね。「いやぁ、もう喜んで」って話になって。それでデラルスをやり始めた。これが1991年の春。最初の仕事は、メキシコのアカプルコであったフェスティバルで、いきなりスペイン語圏全域のテレビ中継付きっていうすごい舞台だったんだよ。もう既にデラルスは海外では爆発的な人気になっていた頃で、2枚目の「サルサに国境はない」を発売する直前のことだったね。

アカプルコのイベントのあと、俺は別の仕事で早めに日本に帰らないといけなくって、澤田くん(澤田浩史)とSALT(塩谷哲)と3人で、他のメンバーよりも早めに引き上げようとしてた。で、3人でメキシコの空港近くのホテルで帰国間際に飯を食べてたらさ、5時間くらい前にやってた自分たちが出ていたイベントの映像が、でっかいプロジェクターに映し出されてね。びっくりしたよー。それはもう、すごい印象的だった。

日本でのデラルスの転換期は、俺が入ってちょっとした後の、マジソンスクエアガーデン出演後かな。そこにテレビの収録が入って、一気に知名度が上がったんだよね。それまでのデラルスは、業界人とか、妙に流行に敏感な一部の人とか、そういうお客さんが多かったんだけど、テレビで大きく取り上げられてから、一般の人たちがドッと来るようになったよね。ライブチケットがプラチナチケット化したりしてね。

デラルスに入る前っていうのは、俺自身、意外とそんなにデラルスとの接点ってなくって。あんまり強い印象を抱いてたわけでもなかった。六本木ピットインのライブや池袋でやってたサルサフェスティバルで見たりしたこともあったけど。
でもね、まだ静岡と東京を行き来していたあるとき、確かデルソルのライブのときだと思うんだけど、NORAに会って。といっても当時そんなに面識があるわけじゃなかったんだけど、カセットテープを渡されてね。「デラルスでレコーディングしたアルバムだから聴いてみてよ」って。一枚目の「DE LA LUZ」のカセット。それで、静岡に帰る途中の車で聴きながらさ、「不思議な音だなぁ。」って思った記憶がある。「いままで沢山サルサ聴いてきたけど、どれとも違うなぁ。」って。それからは結構そのカセット、聴いてたりはしたんだよね。

デラルスに入ってからは、思えば本当に色々大変なことがあったんだよ。
当時、携帯がなかったから、連絡がちゃんともらえなくって酷い目にあったってのは結構ある。RMMっていうのも、すごいラテンなエージェンシーだから、航空チケットが届いてない、みたいなことは日常茶飯事。しかも届いていても、格安のアメリカ軍が使うチケットだったりして。「アメリカ軍じゃないあなたたちは使えません!」とか言われて空港で帰されたこととかあったなぁ。成田まで行って飛行機に乗れなかった事は一度や二度じゃなかったよね。

あと、それこそ、マジソンスクエアガーデンのときに、せっかく日本からテレビ取材まで来てるってんで、気合も入ってるのに、前日にアトランタシティでの営業を入れられててね。で、NORAと現地マネージャーのリッチーは飛行機移動なんだけど、それ以外のメンバーはグレイハウンドの薄汚いバスに揺られて7-8時間。アメリカ着いた途端にバスに乗せられて、やっと到着したと思ったらすぐに音チェックで、その後本番。終ったと思ったらまたバスに乗ってニューヨークまでとんぼ返り。直接マジソンに入ったと思ったらまた音チェック。直後にホテルにチェックインだけしにいって、またとんぼ返りしてマジソンの本番って。...ホント今思えば、酷いにも程があるよねー。フラフラだったよ、本番は。そんな状況だったにも関わらず、その模様が日本で放送され、ビデオにもなっちゃったんだから、本当にまいったね。

国をまたいで移動をしたあとに、即サウンドチェック、そして本番っていうのは結構あって、本当に辛かった。大概、早朝ホテルをチェックアウトして移動してお昼とかについても、すぐにホテルに入れなくって、一旦会場に行ってね。音のチェックしたあと一瞬ホテルでチェックインして、でも、ほとんどゆっくりはできなくって、本番に行く。でも本番はなんだかんだ深夜に終ったりして、戻って寝たくっても、翌朝、早朝のチェックアウトのために、また荷物のパッキング...。その繰り返しは地獄のようだった。この頃は、ちょっとでも寝る時間を見つけて、意地でも寝る事に必死だった。

衝撃的だったのは、ライブを妨害する行為かな。催涙弾とか投げられてね。会場の真ん中でやられて、雲の子を散らすようにサーっとお客さんがいなくなる。で、会場内はパニック状態。俺たちにも一気に目と鼻にツーンときちゃって。でもカルロス(カルロス管野)が「演奏を止めるな!パニックになるから演奏を止めるな!」って、やりながら叫んでて。日本にいたら考えられないよね。二回くらいあったかなぁ、妨害は。

大変なことが沢山あったけど、でも俺は、一旦音楽とは関係ない別の仕事して、それでも音楽が好きで音楽の道に戻ってきた人間だから、やっぱり仕事があるってのがすごく有難かったな。やりたいことをして生活が成り立ってるっていうのはすごく嬉しかったね。あと演奏のレベル的にも、デラルスを始めた頃は、本当にたいしたことなかったと思う。でもいい見本が海外に沢山いてね。そういう人たちを間近で見れたのはすごい財産になった。ちゃんとした演奏ができるようにさせてもらえたのは、旅で沢山の人と出会ったり、他のバンドを被りつきで横からみたりできたからだと思ってる。以前は音楽で踊らせるっていう意識があんまりなかったんだけど、踊りと演奏っていうものの結びつきをちゃんと学べたのは、海外での経験によるものだと思う。その他、サンタナとやれたのは本当に素晴らしい経験だった。憧れてたしね。

海外でのライブはいつも緊張感がすごくてね。ある意味、なめられちゃいけない!って思ったりしてたもんだから、ついつい戦闘態勢になっちゃって。でも「ちゃんと演奏しなきゃ」「いいものを見せなきゃ」って思う責任感と緊張感が、自分にとっては向上心をかりたてられる要因となって、結果的には良かったんだろうなぁ。まあ思いが巡りすぎて、張り裂けそうな状態になった事もあったけどね。

それはそうと、やっぱりパーカッションの世界は、本場の人たちは本当にスゴい!スゴすぎ!同じように叩いたって音量が全然違う。そのボリュームを出そうとしたら俺らはヘトヘトになっちゃう。しかも、こってりのグルーブ付きときている。頑張って近づこうとしても、近づけば近づく程、ゴールが遠のくという感じ。でもそういうギャップを意識しつつも、自分のバックグラウンドを見つめ直していくと、徐々に自分らしいプレイができるようになっていったと思う。


---再結成からトライしている曲づくり。そしてこれから...---

再結成してからは曲を書いたりもしていて、「!BANZAAAY!」と「ARCO IRIS」で1曲ずつ入ってるんだけど。
「LA PUERTA」は、チャリティーライブでオープニングを折角だから新しいのでやろう!って話になって、思いついたのをケントに音を録ってもらってできたのが始まり。それがあのオープニング。で、アルバムを作るっていう時に、ロングバージョンを作ったわけ。元々、俺はガンガン曲を作ったりしてたわけではなくって、作曲の知識も少ないし、コード譜書いたりできないんだけど。でもパソコンでDTM技術が発達したから、イメージさえあれば音にできるようになったんだよね。「OYE OYE OYE」についても復活後2枚目のアルバムを作るってときに「こんなイメージの曲があってもいいねー」なんてメンバー間で話していて、そのイメージを浮かべながら、またパソコンいじって作ったのがあの曲。ベースラインをまず作って、それからどんどん重ねていって。最終的には、メンバーの意見を取り入れたりしてあの感じになってる。

今後については、デラルスとしては、やっぱりいい意味で切磋琢磨しながら活動できればと思ってる。活発に意見を交わしながら演奏できるといいなぁ、と。新しいメンバーとも積極的にいろんな話をして、音楽として一体になれればいいな、って思う。それぞれが個性的であっていいと思うし、そのほうが面白いし。アンサンブルがこじんまりしてしまわないように、つまらなくならないように。音がピタッと合ってるってよりも「気持ち」が合っている。そんな熱く心躍らせる、エネルギッシュで感激させられる音楽をデラルスではやりたいと思ってるんだよね。
それと、今のデラルスは、音に集中するって事より、音楽に集中するって傾向があるのが素晴らしいと感じている。
この違い解るでしょ!


(2007年に実施したインタビュー。なお、写真はその頃のものではありません。)